沖田の日記

人生のきっかけなんぞ、だいたい「なんとなく」じゃよ。

だったら偉くなって、文科省へ行け。

 

教員の働き方改革について。

 

 

 こんなご意見を目にしました。

 

そうなんですよね。

 

「登校指導」とか銘打って普通になんの疑問もなく時間外に働いたりして、中学校高校であれば放課後の部活動指導も然りなんですけど。

 

それで管理職は「早めに(仕事を)切り上げて帰りましょう」とか言ってくれるんですけど、その言葉の中に「学力の低下は仕方ないのでいいです」という意味はないんですよね。

 

じゃあどうすればいいんですかって話ですよ。

 

通知表の所見とか指導要録とかの記入は手書きじゃなくなってきていて、そこは改善された部分であり、業務の効率化をしようとする姿勢が伺えています。

 

でもやっぱり業務量は膨大で、とてもとても勤務時間内に収まるもんじゃない。

 

授業準備だってそうだし教材研究だってそうです。

 

しかも突き詰めようとしたらどれだけやってもキリがありません。

 

うちの校長は言います。

 

「こうやって世間で”ブラック”だと言われる教育の現場で、みなさん教員一人ひとりが子供を良くしていこうという志を持って取り組んでくれているのがとてもありがたいし誇りです」

 

って感じのことを言い、「みんなでがんばっていきましょう」的な励ましで締めくくります。

 

そうやって教員一人ひとりに敬意をはらってくださっているのは流石ですし、リーダーシップをとって学校を運営・経営していく立場の人間として素晴らしいなと思います。

 

でも、

 

志だけでこのブラック労働環境を受け入れる気はない

 

というのが僕の考えです。

 

***

 

ひとつの案としてですが、文部科学省が指導マニュアルを作って授業準備に必要なものも全部用意して教員はそのとおりにやるだけで、それ以外のことはしなくていい…というような方策もあると思います。

 

超超超超超画一的な教育ですけど。なんの面白みもない(笑)

 

さらに、あれもこれもと詰め込むんじゃなくて、必要最低限の教育内容を示したほうがいいと思うんですよね。

 

指導内容の取捨選択というか、断捨離というか、精査というか。

 

そしたら年間授業時間数も減らしていい…というか、減らせるんじゃないですかね?

 

そうしたら我々の勤務時間-1.5hくらいに収める勤務形態もできてくるんじゃないでしょうか。

 

 

指導することの過剰部分が削ぎ落とされて少なくなってシンプルになって、教員もマニュアル通りに教育活動をすればひとまずは教えられるようになって、

 

そうやって「余裕がある状態」で教員一人ひとりが自分で工夫して試行錯誤してより良い教育ができていくと良いんじゃないかなあ、なんて思います。

 

 

まあ、そんな指導マニュアルを作ったり教育内容の精査をしたりする作業を考えたら文科省の役人たちの労働時間が超過しそうだし、無理なんでしょうけどね。(^_^;)

 

今でも「指導書」ってのがありますけど、それに沿ってただ授業しているだけでは良しとしない風潮がありますよね。

 

それもそれでどうかなと思うんですが。

 

まあ児童生徒の実態によりけりで柔軟に変えていかなきゃいけない部分も大きいので、そう簡単にはいきませんよね。

 

***

 

踊る大捜査線』というドラマの中で、和久(いかりや長介)が青島(織田裕二)にこんなことを言います。

 

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和久「お前も正しいことをやりてえか?」

青島「ええ、まあ…」

和久「ええ、まあ?」

青島「はい、したいっす」

和久「自分のやりたいようにやりてえか?」

青島「はい…自分の信じるままに…」

和久「だったら偉くなって、警視庁へ行け」

青島「はあ?柄じゃないっすよ」

和久「30年、ヒラのデカやってきた俺の結論だ。青島…偉くなれ…」

 

 

「正しいことをしたければ偉くなれ」ってやつです。

 

一端の教員が偉くなったら文科省へいけるのか教育委員会どまりなのか、そのへんの仕組みはよくわからないですけど。

 

教育方法に改革をもたらし、教員の労働環境を改善させた上で子供の学力向上も叶えていこうとしたいなら、それを実現できる立場になっていかなきゃいけないんです

 

「自分が」やらなきゃいけないんです。

 

インターネット上でわーわー文句言っているだけじゃ駄目なんです。