沖田の日記

人生のきっかけなんぞ、だいたい「なんとなく」じゃよ。

いじめをなくしたいので「絶対だめだ!」という授業をしよう、という愚案。

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うちの4年生(通常学級)の中でいじめが問題になっている。

 

詳細については書けないが、クラスの子が大勢に陰湿ないじめを受けていて不登校になってしまったのだ。

 

いじめに関しては以前にこんな記事を書いた。

 

xxx3.hatenablog.jp

 

まぁタイトルの通りなんだけど、ノリを合わせられないやつがいじめの対象になるし、ぼくもいじめにあっていたんだっていう思い出話の記事だ。

 

「いじめられる側に問題がある」という意味ではなくて、「まぁこういう子がいじめられちゃうよね」っていうだけの話である。

 

今回4年生でいじめの対象になっている子もおとなしい感じの子なので、クラスのノリに適応できなかったのだろうと思う。

 

 

***

 

 

教員は関係者が集まってどう対応していくかについて話し合うのだが、「人権教育をしよう」とか「”いじめは絶対にいけない”という授業をしよう」とか、そういう話になってしまう。

 

それはそれでやる意義はあるだろうし、一定の効果は見られるのだろうけど、でも、いじめをする側のことも真剣に考えてやったほうがいいと思う。

 

いじめている奴らだって「いじめは絶対にいけないことだ」なんて、わかってる。

 

そんな授業を聞いたところで「はいはい、やめりゃーいいんでしょ。うっせえな」という気持ちにしかならないんだと思う。

 

「またあいつをいじめたら怒られる」

「けどあいつは弱者だからいじめやすい」

 

で再発するか、もしくは「怒られるのは嫌だから他の弱者をターゲットにしよう」になるだろう。

 

そうじゃなくて、いじめをする目的を考えたほうがいい。

 

満たされない部分があるからその鬱憤を晴らそうとしていじめという手段を選んでいるというのが妥当なとこだろうと思う。

 

それが家庭であるのか学校であるのかは子供によるのだろうが。

 

「教育的指導」という、上から押さえつけるやり方ではなく、やはり「傾聴」「共感」が必要なのだろう。

 

彼らの鬱憤や不満、満たされない部分を受け止めてやり、もっと彼らが認められる場を作ったり声かけをしてやったりするべきなのだ。

 

そうすればきっと彼らも変わると思う。

 

信頼してやることが重要なのだ。

 

 

 

ただ、それには人手も時間も必要になる。

 

40人近くいる学級でそんな個々に対応していくための人員もいないし、時間的余裕もない。

 

結局「人手不足」が原因で、十分な教育が受けられないという事態になってしまう。

 

「すべての原因は人手不足」とはよく言ったものだ。

 

人手がいない中で、どうするかを考えるのが経営でありマネジメントなのかもしれないが、その打開策が「上から押さえつける教育」というのでは、社会で言うところのパワハラ的な発想でしかないし、安直すぎるものだと思う。