沖田の日記

がんばれ、おれ。

ぼくはお母さんの死に目に立ち会えるようにしたい。

 

おばあちゃんが死んだ翌日は仕事に行った。  

 

そこで管理職に報告し、三日間の忌引き休をいただくことになった。

 

こうしてスムーズに忌引きで休みが取れるのは職場環境として良いと思うし、フォローしてくれようとする周りの皆さんに感謝しかない。

 

帰り道の運転中に考えたことがある。

 

 

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今回はたまたま祝日の早朝に亡くなったから死に目に会えたけど、これが平日だったらどうだっただろうか…?

 

夏休みとか冬休みとか長期休業中でなければ、授業がある。

 

祖父母は今回で全員亡くなったので、順番としては、次は自分の父母だ。

 

その死に目に会えるか?

 

親が亡くなろうとしているときに、側に立ってその手を握ってやれているだろうか?

 

最後に「ありがとう」と伝えることができるだろうか?

 

 

親としては「自分の死に目に子どもが立ち会うか云々よりも、自分のやりたいことをやって、使命をまっとうしてくれればいい」とか思うかもしれない。

 

でも、今の仕事が本当にやりたいことではないとしたら?

 

仕事よりも親の死に目に立ち会うことを優先したいという気持ちが大きいとしたら?

 

 

「仕事はがんばってますけどね、もし宝くじ10億円当たったらソッコーで今の仕事辞めて、自由な時間を満喫しますよ」という心持ちでやっていることは、「本当のやりたいこと」ではないはず。

 

宝くじが当たったあとでも、世の中に対して働きかけたいことが本当のやりたいことなのではないだろうか。  

 

それこそが「使命」であり、「自分をどう使うか」なのではないだろうか。  

 

本当の使命をまっとうしようとしている仕事なら、場合によっては親の死に目よりも仕事を優先することもあるかもしれない。  

 

でもぼくは今、そこまでの気持ちでは仕事はできていない。      

 

 

 

少し話が脱線した。  

 

本音で言えば、自分の本当の使命の仕事をしていたとしても、自由に自分の時間をコントロールできる働き方にしたいと思っている。  

 

他人にこうしろああしろと言われるのではなく。  

 

働き方を考えることは生き方を考えることである。  

 

人生の三分の一〜半分近くは仕事をしているのだ。  

 

それを妥協するのは人生を妥協するのと同じことだと思う。  

 

そして、自分で時間をコントロールできて親の死に目にも立ち会える生き方をしようとするのか、もしくは目先の収入や不確かな安定を求めて他人に支配される生き方をしようとするのか。  

 

もちろん会社や組織に勤めても、かなり時間を自由にコントロールできたり、家族を大切にすることに対して相当の配慮をしてくれる場合もあるだろう。  

 

でもそういう会社や職場に出会えることは稀だろうし、その仕事が自分の使命になりうるかどうかと言えばまた稀なケースになるだろうと思う。  

 

 

自分の人生は自分で切り拓く。  

 

ぼくはお母さんの死に目に立ち会えるようにしたい。